羊歯食物の日記

鬱病患者ボカロPの陰鬱日記

書くことがない

 今私は、大学を休学し、ほとんどアルバイトにも行かず、だからといって友達も少ないので遊ぶこともあまりなく、家で天井を見つめ続け、急にノロリ……と起きてDTMをするという生活をしている。

 

 はっきりいって、刺激の少ない毎日だ。精神科の先生には、毎日何もしないをして、休んでくださいと言われたが…… 創作するにおいて、私は刺激は必要だと思う。最近は同じような歌詞しか書いていないなと思う。ずっと未練愛憎傲慢な感情をつらつらと。こんなんでいいのか?とは私が1番思っている。だからといって、大嘘を書くのも、私のポリシーに反する。

 

 何か少しでもこの刺激の少ない毎日に意味を持たせるために、この日記を始めてはみたものの、本当に毎日書くことがないな〜と思っている。刺激を求めに外に出よう。明日は。

 毎日抗うつ薬だったり、安定剤だったりを飲んでいるのだが、1日飲むのを忘れただけでわかりやすいようにガタがくる。

 

 体調に訪れるものは、とにかく頭が痛くて、お腹をめちゃくちゃに下し、一日中動けなくなる。とても辛い。

 精神に訪れるものは、とにかく死への思考が止まらなくなる。死にたいと死にたくないの反復横跳び。これが一日中続く。

 

 みんな、お薬は毎日飲もう。悔しいけど、私たちのような人間は薬に生かされているのだと、薬を飲み忘れた次の日はそれを痛感する。薬で保たれる精神なんて、そんなの私であるのだろうか。

愛されたいって簡単に言うな

 人々のこと大好きだけど、結局この人々は最終、私のところには来てくれないとずっと思っているし、事実そうだった

 

と、鍵垢で呟いて、数秒後にこれはとても傲慢な感情だと思って、自分が嫌になった。

 

 私は基本的に人が好きだ。あまり人を嫌いになることはない。私をいじめてきたあの人も、成人式で会った時、普通に会話をしたりなどした。そんな感じ。

 

 よくメンヘラが言う、愛されたいは、本当に嫌いで、なんで嫌いなのかは分からないか、それを聞くと、心の中でバットボタンを押してしまう。

 

書いていて全然話がまとまらないので終わり。これについてはまたしっかり考えたい。

人生の主人公

 私は主人公では無い。ただのモブにすらなれず、何をしたい人生なのか分からない。のくせに、承認欲求だけが成長しきっている。

 

 努力が嫌いだ。こんなことを堂々と言うのは間違っているが、これは本当なのだ。小さい頃から努力が出来なかった。これは私の特性であると自覚している、なんて最悪な特性なんだ。

 

 だからこそ、主人公になるための努力すら出来なかった。主人公には努力すればなれるのだろうか? 少なくとも、努力せずに主人公になれるのは、そういう特性を生まれながらに持ち合わせている、カリスマ性の天才だけだろう。私はカリスマ性の天才が憎かった。ただの嫉妬である。

 

 承認欲求だけが肥大化した私はなんて醜いのだろうか。カリスマ性もなく、だからといって努力もせず、なんて醜いのだろうか。

自分を見ている

 変に自分を客観視出来る(と思っている)せいで、焼け切ってしまうほどに、痛いほどに何かに心酔できたことがない。

 

 幼い頃、よく自分を真上から見ている感覚に陥ることがあった。そういう感覚になると、自分を動かしているこれは何? この感情はどこから来る? 意識とは? とぐるぐる考えてしまう。結局、幼い脳みそでは結論は出ないのだが、よくそんなことを考えていた。

 

 その感覚に大人になってからはならなくなった。あの不思議な感覚はなんだったのだろうか。他にも、周りの物体の大きさが分からなくなって、小さい物体があまりにもデカいエネルギー(分かりにくい表現だが、こう表わすしかない)を秘めているのを恐れ、パニックを起こしていた。これは後に『ふしぎの国のアリス症候群』という名前が付いているのを知った。例のあの感覚にも名前は付いているのだろうか。

 

 幼少期から自分とは、について考え過ぎた結果、何にも心酔できないつまらない大人になってしまった。本当につまらない大人だ。

お盆

 今はお盆だ。

 

 私はお盆だとか、葬式という文化に疑問を持ち続けている。酷いことを言うかもしれないが、死んだ人はもう死んだ人でしかない、と思っている。誤解がないように言いたいが、別に死者を冒涜している訳では無い。死ぬというのは、この世からいなくなる、という紛れもない事実で、この世にしか意識は存在しない。死んだ後、死後の世界があるとか信じられているが、私は全くそういうものを信じていない。

 

 だから私は死ぬというのがたまらなく怖い。意識を手放すのがたまらなく怖い。死んだらその瞬間私を形成する意識、輪郭が無くなる、意味がわからない。本当だったら、死後の世界を信じた方が、私のような人間は救われるだろう。だがしかし、その点だけは全く信じられないのだ。なんでなのかは全く分からない。

 

 死んだ人間に現世から話しかけるなどの行為は全く理解ができない。しかし、そういうことをする人間のことを軽蔑している訳では無い、その人はそうすることで救われているのだから。人間が死後の世界を信じるのは、ある種祈り、そうすることで救われるからだと考えている。宗教などが存在するのはそういうことだろう。死んだ後も私たちを遠くから見てくれている、死んではいるが、魂が消滅した訳ではない、そう信じた方がいくらか救われるのだろう。

 

 私は自分の葬式についてよく考える。前までは、しないで欲しいの一点張りだったが(しようとする人がいるかどうかは置いておいて)、今は、どちらでもいいけど、死んだ後にもそんなにお金をかけられると嫌だよ〜くらいの感じかもしれない。私が死んだあと、悲しんでくれる人がいたとして、その人が私の死を葬式という形で慎むことで救われるならそれでいいと思う。救いを求めるのは悪いことでは無い、むしろそうして人間は生きていると思う。

 

 私が死んだ人間を全く慎まない訳では無い。映画『リメンバーミー』という死者の国が存在するという内容のピクサーの映画で、人間は死んだ後死者の国へ行き、そして現実世界で完全に忘れられたらその死者の国でもう一度死ぬ、完全に消滅するという内容だった。これは半分私の思想と合致すると思った。死者の国は全く信じていないと前述した通りだが、現実世界で忘れられるというのは人間にとって二度目の死だと思っている。

 

 だからこそ、私は死んだ人間を思うのは大切な行為だと思っている。忘れないことで、その人が生きたという証を残す。そうやって私は死んだ人間を慎んでいる。これも、今を生きている私の自己満、本当にその人が望んでいるかと言われるとう〜ん、と唸ってしまうが。少なくとも私は忘れられたくないと思ってしまう。死ぬのが嫌な自分がもう一度死ぬなんて耐えられない……。だからこそ、音楽を作っていた。少しでも、私を忘れられないよう、そんな祈りを込めて。

 

 今はお盆の季節。私にも亡くなった祖父祖母がいる。お盆""だから""慎むというのは私の思想に反している(お盆に限らず、人間を思うことが幸せだと思っている)が、それでも死者を慎むという点では合致しているので、まあお盆という風習も悪いものでは無い、とこの文章を書いていて思った。